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【サンアントニオ】

続いて、サンアントニオについて見てみよう。
サンアントニオ市は、アメリカ合衆国のテキサス州にある都市。
人口約120万人で米国8番目の都市である。
ちなみに、熊本市と姉妹提携をしている。
テキサス州と言えば、J.F. ケネディ暗殺のダラス、初の月面着陸を指令した宇宙センターのあるヒューストン、州都のオースティンなどが有名だが、ここサンアントニオもアメリカ人がテキサスの独立をかけてメキシコ軍と戦った場所、アラモの砦で有名である。1836年、当時メキシコ領だったアラモ砦を舞台に、自治権を求めるテキサス義勇軍の189人(この数には諸説有る模様)が3000〜4000人(同)のメキシコ軍と戦い、指揮官トラビスや英雄デイビー・クロケットを含むほぼ全員(同)が戦死したという。ジョン・ウェインの西部劇で有名だそうだ。

もう少し詳しい背景を見てみよう。
1720年前後にスペインの宣教師が入植し、現在史跡として保存されているアラモの砦のある場所に伝道教会を設立したことが、サンアントニオ市の始まりといわれている。
もともとスペイン領だったテキサスは、1821年に独立したメキシコの領土となっていた。その地にアメリカの開拓民達がどんどん移住していたが、メキシコのサンタ・アナ大統領は彼らの移住を阻止しようと圧政を加えた為、アメリカ人たちは自由と独立を守るため叛乱を起こした。これを聞いたサンタ・アナ大統領が自ら軍隊を率いてアメリカ人叛乱軍の一部が立てこもるアラモ砦に向かった。こうして上記の戦いは13日間の激闘の末、アラモ砦はメキシコ軍に占領されるのだが、当時独立軍を率いていたヒューストン(人の名前)が、「アラモを忘れるな!」(Remember the Alamo!)と奮い立ち、アラモ陥落から45日後、メキシコ軍を破り、サンタ・アナを捕らえ、テキサス共和国を独立させた。その9年後の1845年に、この共和国は28番目の州、テキサス州としてアメリカに併合され、現代に至っている。こうした歴史のため、アラモ砦には、観光客というよりは参拝者といっていいような人達が列が絶えないという。

さて、このサンアントニオ市の中心部、アラモ砦のそばをネイティブアメリカンたちが「ヤナグアナ(清らかな水)」と呼んだサンアントニオ川が流れている。サンアントニオ川は、かつての神通川のように蛇行して流れていた。(U字型)
しかし、1921年9月に同市を洪水が襲ったことがきっかけとなり、有名なリバーウォークの開発が始まった。
その結果、現在では、年間1000万人以上の観光客を引きつける長期滞在型観光都市となっている。リゾート地になれたのは、300日以上も晴天の日があることも大きいようだ。
「パセオ・デル・リオ」と呼ばれる川沿いの散歩道が一般の通りから約6メートル下を周回している。石を敷いたその散歩道沿いには、ヨーロッパ調のブティックやカフェテリアが軒を連ねていて、足を踏み入れた途端、おしゃれな別世界に身を置くことになる。
いってみれば、総曲輪・中央通りやファボーレやイオンなどのお店沿いに川が流れ、滝の音が聞こえ、熱帯植物が生い茂り、鳥がさえずっている感じだ。あるいは、ディズニーランドやディズニーシーのような空間を公共の川沿いに造ってしまったというべきか。
運河を通ってコンベンションセンターに行けるということで、コンベンション客が宿泊先のホテルからぶらぶらリバーウォークを歩いて、またはボートに乗って、楽しい雰囲気に包まれて会場に向かうことができる。

開発の経緯については、「サンアントニオ水都物語」(都市文化社)が詳しいが、(財)自治体国際化協会のHP(http://www.clair.nippon-net.ne.jp/HTML_J/FORUM/JITITAI/128/INDEX.HTM)にうまくまとめられているので、長文になるが、引用する。

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 サンアントニオ市が全米屈指の観光都市となった一因として、市の中心部を流れるリバーウオークの建設が挙げられる。この都市の発展を導いたリバーウオークの建設は、1921年9月に同市を襲った集中豪雨による洪水が発端であると言える。この洪水は、死者50名、当時のお金で被害総額1000万ドルという損害を市にもたらし、市街地は1週間以上閉鎖するという事態に陥った。このため、住民はダムの建設を要求し、市ではこれを受けてダムの建設と河川の幅拡張、都心部河川のU字部分の埋立て道路を作る計画を打ち出した。ダムについては1927年に建設されたが、都心部の川の大きく湾曲する個所であるグレート・ベントの埋立てについては、埋め立てによる再開発を提唱する地元ビジネス界と、自然保護のためこのグレート・ベントをそのまま保存し、街を再開発しようとする地元住民との間で大論争が巻き起こった。

 1929年、地元の建築家ロバート・ハグマンがスペインの古い街並み(注)をコンセプトにした商店、レストラン、アパートをリバーウオーク両岸に建設し、河川をそのまま活かして街を開発しようとする計画(リバーウオーク構想)を市の都市計画委員会に提唱した。その後、この計画は採用され、1941年リバーウオークの整備計画は完了した。整備のための資金は、市債(7万5000ドル)や連邦補助金(35万5000ドル)のほか固定資産税以外の不動産所有者への課税(不動産評価額100ドルにつき1.5セント課税)などで調達した。

 第二次世界大戦を機に、市民のリバーウオークへの関心は薄れ、川の整備、美化活動も行われなくなった。また、高速道路の郊外への延伸によりスプロール化が進展し、都心の人口減少が著しく進んだこともあり、リバーウオークは、浮浪者の溜まり場となり、街はゴーストタウンと化していった。事態を重く見た市では、1963年、ハグマンのリバーウオーク構想も参考にした、全米建築家協会サンアントニオ支部提案によるリバーウオーク再生のマスタープラン「パセル・デル・リオ(川の遊歩道)」を採択し、街の再生に乗り出した。翌年、リバーウオーク周辺の店主等の地元住民がパセル・デル・リオ・アソシエーションという民間組織を設立し、さまざまな再生プランを提案し、街は、徐々に活気を取り戻し始めた。そして、1968年の「へミス・フェア」という万国博覧会の開催を契機にリバーウオーク周辺にはヒルトン・パラシオ・デル・リオをはじめとする数多くのホテルも建設され、ホテル周辺のビル所有者もホテル建設に併せて改装を行った。こうした地域住民や市の努力も実り、万博は大成功を収め、1975年にはコンベンションセンターの建設もなされた。さらに、市は、民間ディベロッパーの協力を得て、連邦政府の都市開発補助金(UDAG:Urban Development Action Grant)を活用し、リバーウオークの水を引き込んだ約4haの敷地にホテル(マリオットホテル 1988年開業客室約1000室)、商業施設、レストラン、劇場を備えた複合施設であるリバーセンターを建設することにも成功している。

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★注★
「サンアントニオ水都物語」によると、ハグマンは、スペイン東海岸沖のバレアレス諸島最大の島、マリョルカ島(「地中海の宝石」といわれる)の最大の都市、パルマ・デ・マリョルカ(ムーア人が支配していた12世紀にさかのぼる数々の印象的な芸術や建築を残している)の古い街並みを参考にしたらしい。なお、マリョルカ島は、スペイン・バルセロナ出身の画家、ジョアン・ミロ(1893-1983)が戦禍を逃れて疎開し、バルセロナ、アメリカ、パリを経て、晩年に長年の夢だった大きなアトリエを構えた場所でもある。彼は、このマリョルカ島のパルマで、90歳でなくなっている。
また、パルマの北の町、バルデモーサは、作曲家ショパンと女流作家ジョルジュ・サンドの愛の逃避行の現場として良く知られている。パリで不倫のうわさが広がったため、ショパンの肺病治療をかねて、1838年に二人は逃げるようにマリョルカ島にやって来た。そして、バルデモーサのカルトゥハ修道院で一冬を過ごした。修道院で二人が借りていた部屋には、ピアノ、楽譜、書簡などが残されている。ここで作曲されたショパンの「雨だれ」の手書き原譜も見ることが出来る。後に、ジョルジュ・サンドが書いた「マリョルカの冬」で一躍、マリョルカ島の存在が世界中に知れ渡ったという。現在、マリョルカ島は、夏期にはドイツ人が押し掛ける避暑地になっているそうだ。ちなみに、このマリョルカ島もサンアントニオ同様、年間300日も晴天だという。


※各所にいろんなホームページからの表現の引用があります。